知里 真志保

 アイヌ語の研究にかけては、世界的な権威として、その名声をうたわれているジョン・バチラー博士が、アイヌ語で説教をして、アイヌを感心させたという話が伝えられております。明治の中頃、といえば、アイヌがまだアイヌ語を使って暮らしていた時代なのでありますが、北海道の南の方の、とあるアイヌ部落に、当時まだ非常に若く、新進気鋭の牧師であられたバチラー博士があらわれて、部落のアイヌを集めて、キリスト教について、アイヌ語で説教を致しました。滔々と何時間か、アイヌ語でペラペラと説教をするのを、ポカンと口を開いたまま、呆気にとられて聞いていたアイヌたちは、博士の長い長いアイヌ語の説教が終ると、感嘆していったということであります。――「えらいもんだな。さすがに、鉈と鎗を使ってものを食う先生だけあって、あのアイヌ語のうまいこと!ただ惜しいことには、北の方のアイヌ語でしゃべったので、何をいったんだかちっとも分らなかった」といったというのです。そのバチラー博士が、今度は北の方の部落に現われ、やはり滔々とアイヌ語で説教しますと、そこのアイヌも、びっくりして、――「えらいもんだな。さすがに、ものを食うにも鉈と槍を使って食う先生だけあって、あのアイヌ語の上手なこと!ただ惜しいことには、南の方のアイヌ語でしゃべったので、何をいったんだか、さっぱり分らなかった……」、といったということであります。

 また「ミナ・コヤイクス」(mina-koyaykus)という表現がある。直訳すれば「笑うことが・できない」ということである。「笑うことができない」ならば、「笑わないでムッツリとしている」のかと思えば、事実は「腹を抱えて笑う」ことである。「これ以上笑いたくても笑えない」というのが、このアイヌ語の真意である。
 古くアイヌは、自分たちをとりまく森羅万象を、自分たちと同様の生き物と考えていた。例えば風であるが、それはわれわれにとってこそ単なる空気の動きにすぎないのであるが、彼らにとってはそれは一個のれっきといた[#「れっきといた」はママ]生き物であった。またある地方では、風が吹き荒れると、戸外に草刈鎌を立てて、「風の神よ、あんまり暴れると、あんたの奥さんのズロースが切れますぜ」などと唱えた。風が女房を連れて暴れまわっているという考え方なのである。風が終日吹き荒れていたのが、夕方になってハタと吹きとだえることがある。そういう夕なぎのことを、「レラ オヌマン イペ」(風が夕方に食事する)という。風も人間同様に夕食をとり帰宅するという考え方である。

 アイヌの社会に於ては、他の未開社会の場合と同様に、呪術というものが非常に大きな働きを演じているのであります。たとえば、彼等が山でマイタケを見つけたといたします。マイタケのことを樺太では“イソ・カルシ”(iso-karus)と云い、北海道では“ユク・カルシ”(yuk-karus)と云い、いずれも“熊きのこ”の意味でありますが、樺太の白浦では、この“きのこ”の生いかけを見たら、棒切れでその廻りの地面に大きな輪を描いたと云います。それほど大きくなれといったような意味でありましょう。秋になってこの“きのこ”を取る時は、必ず、まず槍を構えて、掛声もろとも突き出すまねをしてから取ったと言います。あいにく槍を持ちあわさぬ時は、手頃の木を切って槍のようなものを作り、それで突くまねをしてから取ったと云います。つまり熊を取る時と同じような気持ちだったと見られるのであります。

知里 幸恵

拝啓 しばらく御無沙汰いたしました。お父上の御病気は大分よくなったときいて私等ははじめて安心いたしました。秋も早やたけなはとなりまして四方の山は錦を着飾ってだん/″\涼しうなりましたから、きっと病気もよくなるでせうと私も昼夜祈って居ります。母上様も今年は御健康の由、いかもいゝあんばいに沢山とれておあしもたくさんとれゝばいゝと願って居ります。私も無事にて勉学をして居りますから御安心下さいませ。
新聞でも御存じの聯合共進会は八日から開かれました。教育展覧会も開かれました。区内各学校、上川支庁管内の学芸品が並べてありますからまことにりっぱださうです。私も二三日のうちに行って見ます。私の綴方も出て居ます。
昨日は区内小学校聯合音楽会がひらかれました。私は第五アイヌ学校の卒業生となってオルガン独奏をやりましたが意外 うまく出来ました。他の学校から出た生徒達は上手に唱歌をうたひましたが私等のアイヌ生徒も余程上手でした。幾万の見物人の前でするのでずいぶんほねおれたでせう。私なんか間違はないで弾いてしまってみんなに手をはたいてほめられて、ほっとしましたわ。かういへば、いかにもうまさうにきこへませうが実はハボから見たらほんとに下手なんで御座いませう。いつかお話した東京庁立体操音楽女学校を卒業して旭川高等女校の唱歌教師をしている鈴木先生の独唱もきゝました。旭川に一人の先生の声をきいたのですから余程光栄だといはなければならないのださうです。それで閉会でした。でも面白うございましたよ。

目がさめた時、電燈は消えてゐてあたりは仄薄暗かった。お菊さんが心地よげにすや/\と寝息をたてゝゐた。今日は六月一日、一年十二ヶ月の中第六月目の端緒の日だ。私は思った。此の月は、此の年は、私は一たい何を為すべきであらう……昨日と同じに机にむかってペンを執る、白い紙に青いインクで蚯蚓の這い跡の様な文字をしるす……たゞそれだけ。たゞそれだけの事が何になるのか。私の為、私の同族祖先の為、それから……アコロイタクの研究とそれに連る尊い大事業をなしつゝある先生に少しばかりの参考の資に供す為、学術の為、日本の国の為、世界万国の為、……何といふ大きな仕事なのだらう……私の頭、小さいこの頭、その中にある小さいものをしぼり出して筆にあらはす……たゞそれだけの事が――私は書かねばならぬ、知れる限りを、生の限りを、書かねばならぬ。――輝かしい朝――緑色の朝。朝食の時、中條百合子さんの文章から、術レ芸と実生活、金持の人の文章に謙遜味のない事などを先生がお話しなすった。
芸術と云ふものは絶対高尚な物で、親の為、夫の為、子の為に身を捧げるのは極低い生活だといふのが百合子さんの見解だといふ。「しかし芸術が高尚な尊い物であるのとおなじく、家庭の実生活も絶対に尊い物である事にまだ気がつかないのはまだ百合子さんが若いのだ、かはいさうに……」と先生は、若い彼の女をいぢらしいものの様にしみ/″\と仰る。私ハよそ事ではないと思った。胸がギクリとした。私には芸術って何だかよくはわからないが……。
それから、百合子さんは、あまりに順境に育ったので、人生は戦ひである事を知らずに物見遊山と心得てゐる……といふお話もあったが、わかった様なわからない様な気がした。

 その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる篝も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,円かな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.
 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて,野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ.僅かに残る私たち同族は,進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり.しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて,不安に充ち不平に燃え,鈍りくらんで行手も見わかず,よその御慈悲にすがらねばならぬ,あさましい姿,おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名,なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.